twitterはじめました

本当にご無沙汰しております。ブログ更新は大変だけど、twitterならば…ということで、twitterをはじめてみました。こちらの方では、毎日ちょっとずつだけどつぶやいています。

http://twitter.com/kenichikurimoto

ただ、当局のtwitter規制が日々厳しさを増しており、いつまでつぶやき続けられるのかはわかりません。(規制についての詳しくは、「大陸の風−現地メディアに見る中国社会/ふるまいよしこ 第153回 『ささやき声の勝利』」http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report4_1672.htmlをご参照ください)ぷっつり更新が途絶えたら、そういうことだとお察しください。GFWはさらに強固になってきており、にわかPC知識で抗うのもそろそろ限界です。

とはいえ、規制されるその日まで、つぶやき続ける所存です。ユーザーの方は、ネットの片隅でぶつぶつとつぶやいているのを見つけたら、そっとフォローしてください。

成都常駐01

北京五輪もそろそろ佳境に差し掛かっている。連日テレビにネットに検索が大忙しだけど、北京の熱狂に後ろ髪を引かれながらも、先週から成都へ常駐監理に出向している(最初の5日間は浙江省の温州という街だったけど)。内装物件なので2週間半くらいのわずかな期間だが、敬愛する諸葛亮孔明が眠る街に、そして何よりもパンダの聖地に物件を手がけることができて、素直にうれしい。

とはいっても、もちろん観光ではない。現場では連日のように細かい問題が発生し、ちゃんと工程どおり完成するのかやきもきさせられっぱなしで、心の底から楽しめているわけではない。責任というプレッシャーが、真綿で首をぐいぐいと締め付けるように食い込んでくるので、むしろ精神的にしんどい面が多い。この現場でいちばんの山場が来週頭に訪れる予定なので、それを考えると今からものすごく頭が痛い。四川料理は辛すぎで、食べ終わると必ずお腹が痛くなるし…(おいしいからや懲りずに食べ続けているけど)。ただ、心身ともにふらふらだけど、この物件が完成すれば必ずいいものができるという確信があるので、あんまりそうは見えないと言われるけれども、気力だけはたいへん充実している。(内輪話だけど、北京でサポートしていてくれるJ先生には本当に感謝しています。無事に北京に戻れた暁には、かわいパンダのぬいぐるみをおみやげに持って帰ります。)

現場の話はさておき、ブログの話題を成都に移そう。成都についての詳細はウィキペディアの方が詳しいのでそちらを参照にしてほしいけど、数日間の滞在の中で、贔屓目を差し引いてもこの街は北京並みに興味深い街だなと感じた。整理できていないので雑記に近くなるけど、とりあえずアンテナに引っかかったものを列挙しておこうと思う。

Beginning of Beijing

オリンピック開会式まであと数時間を切り、北京の盛り上がりは最高潮を迎えている。心配された天気は快晴ではないけれど、格別に悪いというものでもない。グレイ・イン・グレイ。北京らしい天候だ。

ぼくが働く建外SOHOには国内外の多くのベンチャー企業が入っているけど、その多くが今日はオリンピック休暇で会社を留守にしているか、もしくは早上がりである。そのため、普段はにぎわう8号棟前の広場も人影はまばらだ。おそらくめいめいの場所でカウントダウンを心待ちにしているのだろう。ぼくが所属する事務所もご多分に漏れず今日は早上がりで、所内は早くもそわそわし始めている。

夕方を過ぎれば、市内の多くの場所で盛大なイベントが催される。そういう場所でわーっと地面を踏みしめるシーンもあれば、自宅のテレビの前で気心知れた仲間たちと青島ビールを飲みながら肩をたたき合うシーンもあるだろう。春節のように、街路で花火を打ち上げながら近所の人たちと笑い合うシーンもあるかもしれない。それぞれがそれぞれの想いを抱きながら、あと残り数時間を過ごすのだ。

昨日おとといと温州、成都に出張に行ってきたけど、それぞれの街もやっぱりオリンピック一色だった。テレビのチャンネルを回しても、やっぱりオリンピック一色だ。おそらく日本のテレビもオリンピック報道でいっぱいだろう。ネットもオリンピック情報で埋め尽くされている。つまるところ、世界中いたるところで「オリンピック」という言葉があふれかえっている。物理的な距離を超え、同時多発的・共時的にひとつの単語で満たされる状況は、思えば本当にとてつもないことだ。

20年代のニューヨーク、70年代の東京、そして00年代の北京。都市にも一生があり、青春がある。今この瞬間こそが北京の青春ど真ん中なのだと隈研吾は言ってたけど、オリンピック当日になって、やっぱりこの街にきてよかったなと素直に思った。もっとも生命力があふれる一瞬に立ち会っているという実感は、ぼくの人生の中でそう何度もないだろう。

今回のオリンピックに関してさまざまなことが言われている。北京に関してもそうだ。批判的な風評には、ぼくもいささかうんざりしているけど、批評をするのならばとりあえずこの地に足を踏み入れてみればいいと思う。語られていることの大部分は、状況のほんの一断片にしか過ぎない。足を踏み入れない限り、その人には語る資格がなにもない。情報リテラシーには身体的経験が伴うということをまず自覚すべきなのだ。そこで語られる言葉は空虚で、情報の劣化コピーにしかすぎない。終わりの始まりなのか、始まりの終わりなのか、とりあえずぼくは後者を信じたい。

松原研究室のブログ(http://matsubara-labo.sfc.keio.ac.jp/blog/2008/08/post_44.html)で松原弘典さんが熱いメッセージを送っていたけど、それを読んだ勢いでぼくもついついこんなブログを書いてしまった。開会式の前に、ぜひご一読を。さて、今夜はどこへ行こう!

商店建築8月号

今月号の商店建築にぼくが担当していた物件が掲載されました。ひとつながりになったハンガーパイプでデザインした「北京イフィニ」という女性服のブティックです。機会があればご一読ください。

site-responsive

オリンピック開催を間近に控え、街には祝祭的なムードがゆっくりと、しかし確実に高まりつつある。20日からは市内の建設行為が中断され、車の交通規制も始まり、カウントダウンが目に見えるかたちで進行されつつある。

それらの影響でホワイトノイズは減少し、そっと地面に耳をすませても、以前のように蠢くような微小な振動を感じることはできなくなった。急に街がしん、としてしまった。おかげで心なしか耳のつかえがとれ、頭がすっとクリアになった気がする。ざわざわ感がなくなったと言えばいいのだろうか。普段は知覚できなかったので気づかなかったが、おそらくそれらは無意識のうちに身体を一種の興奮状態へと導いていたのだろう。都市が奏でていた通奏低音は身体と共鳴し、うねりを生みだしていたのだ。最近日本へ帰国したが、日本ー東京はとても静かだった。とても静かで、ねっとりと生温い。

北京も静かになった。だが、とても暑い。ただそこに立っているだけでじっとりと汗が吹き出してくる。手のひら、ひたい、膝の裏…体中のいたるところから汗が吹き出してくる。そういう暑さだ。それは熱源が太陽だけではないからだ。もちろん、「ジャンク・スペース」のエアコンの話ではない。都市を構成するすべての要素から全方位的に熱気が発せられているのだ。日を追うごとに暑さは強まっていく。あまりの暑さゆえに、街を動かしていたエネルギーがそのまま熱量に変換されているのではないか、とさえ疑ってしまう。

うだるような暑さの中で、結局オリンピック会期までに建設が間に合わなかった建物を眺めながら、ある言葉たちを頭の中で反芻する。その言葉たちとは、site-dominant、site-adjusted、site-specific、site-determined(site-conditioned)の4つだ。

目の前にある建物をこれらのカテゴリーに入れるべきかはさておき、最近、北京を語るにおいて、これらの4つの言葉は非常に有効ではないかと考えている。

言うまでもなく、北京の中心には故宮が位置し(site-dominant)、訒小平の改革開放後、膨大な開発の果てには建外SOHOが生み出され(site-adjusted)、この国特有の制度が世界に類を見ない芸術地区−大山子798芸術区や草場地芸術区−を誕生させた(site-specific)。そして、それらは矛盾をはらんだまま同じ市内に同在している。今挙げたものはそれぞれのカテゴリーを代表するものだが、北京に存在する建物は、世界中にあるほとんどの建物と同じように、site-dominant、もしくはsite-adjustedに属すだろう。

北京には今膨大な量の情報があふれ、都市的環境は秒刻みでアップデートされ、そこに住む人々の認識も日々刻々と変化している。日本より進んだネット環境と(ある意味では遅れているが)、モバイル環境により、記憶の外部化は信じられない速度で進んでいる。その結果、全体/個人主義の固まりであった中国では、記憶の差異/共有化が同じ速度で進行している。その速度は減速するどころか、さらに加速さえしている。

押井守の言葉どおり、都市は人間の身体の拡張だ。今の北京の姿が、現在の北京に住む人々の<生きられた身体>の「うつしみ」ならば、これから生まれてくる北京は今までと同じ姿ではないだろう。外国人のぼくにでもわかるくらい、人々の中では「何か」が変化している。その「何か」の集積がうだるような熱量を生み出し、その熱量を取り込んだ人々がまた「何か」を生み出していく。その連鎖反応は止まる手段をなくしたかのようだ。2008年8月現在、人々はひとつの皮肉的なスローガンに向かってその熱量を消費しようとしている。熱量はほとんどがそこで消費されてしまうだろうが、すべてではない。その熱量の総和は、その場で消費されるべき量をすでに超えてしまっている。

それらの熱量によってかはわからないが、固有の制度はねじれを生み出し、不思議な場所をつくり出している。そのひとつが南楼鼓巷という場所である。南楼鼓巷についてはまた別の機会に書こうと思うので割愛するけど、ひとりのカメラマンがつくり出した小さなカフェは、いつの間にか周囲を巻き込み、その流れはいまや留まるところをしらない。そこではボトムアップトップダウンが目まぐるしく移り変わる現象が巻き起こっている。この場所は、4つの言葉の最後である、site-determinedに今現在、世界で最も近しい場所と言ったら語弊があるかもしれない。だが、site-determinedがオートポイエティック的な概念であるとしたら、それはあながちおおげさということでもないだろう。

ぼくたち建築設計に関わる人間たちは、「site-determined的建築」を目指すべきなのだと最近思う。「site-determined的建築」がどういうものなのかはよくわからないけど、それは別に北京でしか生み出せない、というものではない。それはsite-dominant→site-adjusted→site-specific→site-determinedという連続した概念である。それはそれ自身を生み出す意思が不可欠ではあるが、つくろうと思えばどこにでもできるものである。また、それは原初的な時代にもあったかもしれないし、未来にもきっと存在し、今ここにも間違いなく存在する。それは発見されるものである。そこで重要になるのは、覚悟であり、態度であり、意思表明なのだ。ぼくはとりあえず、その言葉が意味するものを北京の中で探索し模索し続けている。


つづく

建築設計をはじめた理由


建築学科で6年間設計を学び、設計事務所で働き始めてから1年が経つけど、そういえば何で建築設計を始めようと思ったのか、最近そのきっかけをふと思い返すことがあった。ぼくの人生をゆっくり振り返って整理すると、それは4つほど見つかった。

時系列に振り分けていくと、いちばんはじめのきっかけは小学生のときで、細かい内容はよく覚えていないけど、確か社会科の授業か夏休みの自由研究に自宅の配置図をはじめて見る機会があり、それについて両親と会話を交わしたときのことだった。

今は建て替えてしまったが、ぼくの昔の実家は南北軸に対して正確に90度傾いていた。近隣の家はみな道路に対して平行垂直だったのに、なぜかぼくの家だけ、ひまわりのように正確に太陽の方角へ傾いていたのだ。

はじめて配置図を見て、普段見ている風景が線になって輪郭が与えられている、もちろんそのことにも驚いたのだが、今住んでいる家がひまわりと同じ性質を持っていることに気づいたとき、ぼくはとても驚き、すごく興奮した。両親にその理由を尋ねても首を傾げていたが、家もたくさんお日様に当たった方が気持ちいいでしょ、前に住んでいたKさんが大工さんに注文したのかな、という答えが返ってきたような気がする。誰かが家をひまわりにした。ぼくは、通学路の石ころや校庭に生える雑草のように、何となしの感覚で捉えていた「建物」という存在が、お日様にたくさん当てるために誰かが傾けて配置した、言い換えれば「建物」に人間の意思が介在していたということに、何よりも驚いたのだった。

世の中にあるものには意思が介在している、また、理由や原因がある。幼心ながらそのことに気づいた瞬間、今までぼんやりと感じていた日常風景は明らかな変化を遂げた。鉛筆や車のタイヤ、洋服のボタン、果ては雲のかたちにまで、他の人間、あるいは何か大きな力が介在している。どんなにつまらなそうに見えるものでも例外はない。世界は途端に輝きだした。ぼくは何かに気づく度にその背景をわくわくしながら想像し、自分で勝手にその理由や原因をつくり出しては、本を読んだりしてそれを検証し、理解し、その間にある「ずれ」を楽しみ、また他のことについて空想を繰り返すようになっていった。おかげで小さいときは(今もだけど)退屈だったと思うような記憶はひとつもない。それは少し大人になった、認識が深くなった、あるいは環境世界が広がったのだと言えるけど、小さいながらも精一杯構築した世界は、どんな大きな物語よりも輝いて見えるものだった。

ぼくの昔の実家は別に建築家が設計した家ではないが、ひまわり的な考えを取り入れたことで、近隣の家よりちょっぴり暖かくなり、家の庭には「ヘタ地」的な要素が生まれてこどもの遊び心を刺激するような多様な状況を生み出し、その他にも、ひとりの少年を建築設計という少しヤクザな道へと向かわせた。ぼくはその後いろいろなものに興味を持ったが、はじめて外の世界に興味を向かわせた「家の配置図」のインパクトは思った以上に大きかったようで、ぼくは今こうして建物の図面を描きながら、こんな文章を書いている。そしてその名残か、配置図に関しては異様な興味を抱き続け、自分が設計する建物や内装にも、意思、もしくは理念が込められるように日々悪戦苦闘している。

こんな話は他人にとってはどうでもいい話だけど、北京の南北軸から25度振られた建外SOHOの窓から、休憩中に外をぼんやりと眺めていて、ふとそんなことを思い出した。それにしても最近北京は雨が多い。

ブログ再開

ご無沙汰しています。

エキサイトブログ中国当局からのアクセス制限がかかり、更新できなくなってから早半年。規制の網は一向に弱まる気配がなく、ブログもこのままフェードアウトしていくのかなとぼんやり思っていましたが、ある機会がきっかけとなってアウトプットの必要性を強く感じ、心機一転、「はてな」に移行してブログを再開してみることにしました。

たぶん、北京からのインナーレポートが主体になっていくと思いますが、とにかく何でもいいので、少しずつ更新していこうと思います。

次回の更新は早くも未定ですが、気長にどうぞよろしくお願いします。とりあえずぼくは元気に生きていますが、最近メタボという単語にいろいろな意味で敏感になっています。