Beginning of Beijing

オリンピック開会式まであと数時間を切り、北京の盛り上がりは最高潮を迎えている。心配された天気は快晴ではないけれど、格別に悪いというものでもない。グレイ・イン・グレイ。北京らしい天候だ。

ぼくが働く建外SOHOには国内外の多くのベンチャー企業が入っているけど、その多くが今日はオリンピック休暇で会社を留守にしているか、もしくは早上がりである。そのため、普段はにぎわう8号棟前の広場も人影はまばらだ。おそらくめいめいの場所でカウントダウンを心待ちにしているのだろう。ぼくが所属する事務所もご多分に漏れず今日は早上がりで、所内は早くもそわそわし始めている。

夕方を過ぎれば、市内の多くの場所で盛大なイベントが催される。そういう場所でわーっと地面を踏みしめるシーンもあれば、自宅のテレビの前で気心知れた仲間たちと青島ビールを飲みながら肩をたたき合うシーンもあるだろう。春節のように、街路で花火を打ち上げながら近所の人たちと笑い合うシーンもあるかもしれない。それぞれがそれぞれの想いを抱きながら、あと残り数時間を過ごすのだ。

昨日おとといと温州、成都に出張に行ってきたけど、それぞれの街もやっぱりオリンピック一色だった。テレビのチャンネルを回しても、やっぱりオリンピック一色だ。おそらく日本のテレビもオリンピック報道でいっぱいだろう。ネットもオリンピック情報で埋め尽くされている。つまるところ、世界中いたるところで「オリンピック」という言葉があふれかえっている。物理的な距離を超え、同時多発的・共時的にひとつの単語で満たされる状況は、思えば本当にとてつもないことだ。

20年代のニューヨーク、70年代の東京、そして00年代の北京。都市にも一生があり、青春がある。今この瞬間こそが北京の青春ど真ん中なのだと隈研吾は言ってたけど、オリンピック当日になって、やっぱりこの街にきてよかったなと素直に思った。もっとも生命力があふれる一瞬に立ち会っているという実感は、ぼくの人生の中でそう何度もないだろう。

今回のオリンピックに関してさまざまなことが言われている。北京に関してもそうだ。批判的な風評には、ぼくもいささかうんざりしているけど、批評をするのならばとりあえずこの地に足を踏み入れてみればいいと思う。語られていることの大部分は、状況のほんの一断片にしか過ぎない。足を踏み入れない限り、その人には語る資格がなにもない。情報リテラシーには身体的経験が伴うということをまず自覚すべきなのだ。そこで語られる言葉は空虚で、情報の劣化コピーにしかすぎない。終わりの始まりなのか、始まりの終わりなのか、とりあえずぼくは後者を信じたい。

松原研究室のブログ(http://matsubara-labo.sfc.keio.ac.jp/blog/2008/08/post_44.html)で松原弘典さんが熱いメッセージを送っていたけど、それを読んだ勢いでぼくもついついこんなブログを書いてしまった。開会式の前に、ぜひご一読を。さて、今夜はどこへ行こう!