建築設計をはじめた理由


建築学科で6年間設計を学び、設計事務所で働き始めてから1年が経つけど、そういえば何で建築設計を始めようと思ったのか、最近そのきっかけをふと思い返すことがあった。ぼくの人生をゆっくり振り返って整理すると、それは4つほど見つかった。

時系列に振り分けていくと、いちばんはじめのきっかけは小学生のときで、細かい内容はよく覚えていないけど、確か社会科の授業か夏休みの自由研究に自宅の配置図をはじめて見る機会があり、それについて両親と会話を交わしたときのことだった。

今は建て替えてしまったが、ぼくの昔の実家は南北軸に対して正確に90度傾いていた。近隣の家はみな道路に対して平行垂直だったのに、なぜかぼくの家だけ、ひまわりのように正確に太陽の方角へ傾いていたのだ。

はじめて配置図を見て、普段見ている風景が線になって輪郭が与えられている、もちろんそのことにも驚いたのだが、今住んでいる家がひまわりと同じ性質を持っていることに気づいたとき、ぼくはとても驚き、すごく興奮した。両親にその理由を尋ねても首を傾げていたが、家もたくさんお日様に当たった方が気持ちいいでしょ、前に住んでいたKさんが大工さんに注文したのかな、という答えが返ってきたような気がする。誰かが家をひまわりにした。ぼくは、通学路の石ころや校庭に生える雑草のように、何となしの感覚で捉えていた「建物」という存在が、お日様にたくさん当てるために誰かが傾けて配置した、言い換えれば「建物」に人間の意思が介在していたということに、何よりも驚いたのだった。

世の中にあるものには意思が介在している、また、理由や原因がある。幼心ながらそのことに気づいた瞬間、今までぼんやりと感じていた日常風景は明らかな変化を遂げた。鉛筆や車のタイヤ、洋服のボタン、果ては雲のかたちにまで、他の人間、あるいは何か大きな力が介在している。どんなにつまらなそうに見えるものでも例外はない。世界は途端に輝きだした。ぼくは何かに気づく度にその背景をわくわくしながら想像し、自分で勝手にその理由や原因をつくり出しては、本を読んだりしてそれを検証し、理解し、その間にある「ずれ」を楽しみ、また他のことについて空想を繰り返すようになっていった。おかげで小さいときは(今もだけど)退屈だったと思うような記憶はひとつもない。それは少し大人になった、認識が深くなった、あるいは環境世界が広がったのだと言えるけど、小さいながらも精一杯構築した世界は、どんな大きな物語よりも輝いて見えるものだった。

ぼくの昔の実家は別に建築家が設計した家ではないが、ひまわり的な考えを取り入れたことで、近隣の家よりちょっぴり暖かくなり、家の庭には「ヘタ地」的な要素が生まれてこどもの遊び心を刺激するような多様な状況を生み出し、その他にも、ひとりの少年を建築設計という少しヤクザな道へと向かわせた。ぼくはその後いろいろなものに興味を持ったが、はじめて外の世界に興味を向かわせた「家の配置図」のインパクトは思った以上に大きかったようで、ぼくは今こうして建物の図面を描きながら、こんな文章を書いている。そしてその名残か、配置図に関しては異様な興味を抱き続け、自分が設計する建物や内装にも、意思、もしくは理念が込められるように日々悪戦苦闘している。

こんな話は他人にとってはどうでもいい話だけど、北京の南北軸から25度振られた建外SOHOの窓から、休憩中に外をぼんやりと眺めていて、ふとそんなことを思い出した。それにしても最近北京は雨が多い。